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浦和地方裁判所 昭和61年(ワ)1073号 判決 1990年6月29日

主文

一  原告の請求をいずれも棄却する。

二  訴訟費用は原告の負担とする。

事実

第一  当事者の求めた裁判

一  原告

「1 被告らは、原告に対し、各自金三〇八九万四六六三円及びこれに対する昭和五八年三月一一日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。2 訴訟費用は被告らの負担とする。」との判決並びに第1項につき仮執行宣言

二  被告ら

「主文同旨」の判決

第二  当事者の主張

一  請求原因

1  当事者の地位

(一) 原告は、後記事故発生当時、埼玉県所沢市立牛沼小学校(以下「本件小学校」という。)六年一組の児童であった。

(二) 被告所沢市は、本件小学校の設置者である。

(三) 被告埼玉県は、市町村立学校職員給与負担法一条により、本件小学校の教諭の給与を負担している。

2  事故の発生

原告は、昭和五八年三月一一日午前一二時ころ、本件小学校四階の視聴覚室において、六年一組の児童として、他の児童らと共に、図画工作科目の卒業記念制作のための授業を受けていた際、同じ組の児童海風富治(旧姓高橋富治、以下「海風」という。)の握っていた彫刻刀で右目を刺されたため(以下「本件事故」という。)、右強角膜裂傷、右外傷性水晶体亜脱臼の傷害を負った。

3  本件事故の状況等

(一) 本件小学校六年生の一組から四組までは、昭和五八年一月ころから木彫りのレリーフ一枚を共同で完成させる卒業記念制作のための作業をしていた。右レリーフの制作過程としては、まず、一枚の絵を縦に四分割し、次に一部分の制作を組単位で担当することとし、各組では担当部分をさらに一〇枚位に分割したうえ、その小板を四人程度の児童が担当し、制作するという順序で計画され、実行されていた。本件事故当時は、右小板が集められ、幅一・二五メートル、長さ二・七二メートルの一枚板(以下「本件彫刻板」という。)につなぎ合わされて、本件小学校の視聴覚室の机に載せられていた。

(二) 六年一組の児童約四〇名は、昭和五八年三月一一日午前一二時ころ、右視聴覚室において、担任教諭浮田秀淑(以下「浮田教諭」という。)の指導監督の下に、約半数づつ交替で、本件彫刻板に、氏名を彫刻したり、彫りの足りない部分を彫ったり、あるいはつなぎ目を仕上げる等の作業をしていた。

(三) 右授業中、海風が中出達也(以下「中出」という。)に貸していた彫刻刀を返してもらおうとして、中出の手にした右彫刻刀を握って強く引いたため、引き合いの状況になったところ、中出がその彫刻刀から手を放した反動で、右海風の手に握られていた彫刻刀の刃先が同人らのそばにいた原告の右目に刺さり、前記角膜裂傷等の傷害を負わせた。

4  被告らの責任

(一)(1) 本件事故は、正課授業中に発生した事故であるところ、学校教育においては、授業を指導監督する教師は教育指導の専門家であるから、専門家としての能力、知識、経験に基づいて授業の指導監督にあたることが要請される。しかも本件事故発生当時の授業は、彫刻刀を使用し、そのうえ全員が一つの彫刻板を制作するという危険性の高い授業であったから、その指導監督にあたる教諭には、細心の注意を払うことが要請され、高度の注意義務が課せられていた。ところで、一般的に教師の指示に従って行動した児童が負傷した場合と異なり、本件事故のような児童間の突発的事故の場合には、その事故の発生可能な状況を作出した点において、教諭の過失が認められるべきである。

(2) そして、本件事故については、浮田教諭の職務を行うについての、次のような指導上の過誤があり、これらが本件事故の発生し得る状況を作出したものとして、義務違反があり、過失があるといわなければならない。

<1> 児童間の彫刻刀の貸し借りを認めた。すなわち、小学校教育の中では彫刻刀の貸し借りが禁じられているところ、その理由は、年令一二才前後の児童には、彫刻刀の危険性が十分理解できず、自己の行為の結果に対する予測もよくできないので、あたかも彫刻刀が少しも危険でない道具であるかのように扱い、行動しがちであるので、児童間に彫刻刀のやり取りがされるために発生する事故を防止することにある。ところが、本件事故発生当日の授業では彫刻刀を持参していない児童がかなりいたのであるから、このような場合は、作業を中止するか、他の組から借りてくるか、あるいは彫刻刀を持っている児童だけを作業にあたらせる等して、貸し借りを認めない指導をすべきであったのに、浮田教諭は、右各措置のいずれによることもなく、漫然と彫刻刀の貸し借りを認めた。

<2> 緊張感を欠く雰囲気の下で授業を行った。すなわち、未熟な発達段階にある児童多数が集団生活を送る場である学校では、一旦緊張感を欠く雰囲気になると、必ずと言ってよいほど児童同士のふざけ合い、いたずら、こぜり合いなどが起るものである。本件事故発生当時の授業の雰囲気下においては、児童に椅子が与えられておらず、自由に歩き回っていたこと、調整作業が六年三組によってすでに一通り行われており、しかも名前を彫る作業に従事できる児童はわずか二名ずつであったから、児童の大多数はやるべき作業がなかったこと、児童は体をぶつけ合う状態で作業をしていたこと、前記のとおり彫刻刀の貸し借りや私語が許されていたこと、時期的にも通常の教科書を使っての講義が終り、卒業間近で、児童間に遊び気分があったことなどの状況にあった。そこで、浮田教諭は、児童に対し、緊張した雰囲気下で授業を行うための適切な指導措置をとるべきであったのに、何らの措置をとらなかった。

<3> 児童の密集した状態で、危険な姿勢のまま作業を行わせた。すなわち、本件事故発生当時、児童は頭と頭、肩と肩が触れ合う程に密集した状態で作業をしていた。このような状況での作業は、児童の気分をいらだたせ、落着きをなくし、こぜり合いを生じさせ易く、わずかの体の動きが重大な結果に結びつく原因をなすものである。そのうえ、本件彫刻板は高さ六一センチメートルの机に載せられていたところ、児童には椅子が与えられず、膝をつき、あるいは中腰で向い合って作業をしていた。このような情況下では、児童は、膝をついて作業することにより、肩から上を本件彫刻板の上に出すことになるところ、向い合って作業をしているので、たまたま隣で作業をしている児童の彫刻刀がすべった場合でも、児童の目を刺す危険性は極めて高いものがあった。

(3) したがって、浮田教諭が本件事故当日、児童に対し、事前に彫刻刀の扱いについて、児童間の彫刻刀の貸し借りを禁じるなどの説明を加え、共同作業を少人数で整然とやらせるため、児童が自由に動き回ったりすること及び私語を禁じること、一度に作業する人数を減らして児童間の間隔をあけること、児童を椅子に着席させて、安全な姿勢で作業させることなどの注意義務を尽くし、あるいは児童が緊張感を抱くに足りる注意を与えること等の方策を一つでも適切に講じていれば、本件事故を回避することは十分に可能であった。

(4) よって、被告所沢市は、国家賠償法(「以下「国賠法」という。)一条一項に基づき、被告埼玉県は同法三条一項に基づき、原告が本件事故により被った損害を賠償する責任がある。

(二)(1) 被告所沢市は、本件小学校に在学する児童に対し、在学契約ないし入学許可という行政処分により発生した在学関係に基づき、学校管理下における児童の身体、生命、健康を危険から守る安全配慮義務がある。

(2) 原告は昭和五二年四月本件小学校に入学を許可され、昭和五八年三月二五日に同校を卒業したものであり、右の間、原告と被告所沢市との間には在学契約ないし在学関係が存続していた。

(3)(イ) 前記のとおり、浮田教諭が本件事故の発生し得る前記状況を作出した点には、児童の身体・生命についての安全配慮義務違反がある。

(ロ) 被告所沢市は、所沢市立学校の人的物的施設全体を支配管理する者として、本件事故が発生することのないよう人的物的施設を充実する義務が存するのにこれを怠ったものである。

(4) よって、被告所沢市は在学契約ないし在学関係による安全配慮義務違反に基づき、原告が本件事故により被った損害を賠償する責任がある。

(三) 仮に、浮田教諭に過失がないとしても、学校教育は国民の教育水準を最も効率的に向上させるという国家目的のために個々の児童の安全を犠牲にしても、学校という集団的な教育の場で国民を教育するものであるから、この全体の目的のために個人が犠牲になったときは、無条件でその損害を賠償すべきであり、無過失責任が認められるべきである。

5  損害

(一) 入院雑費 金二万五〇〇〇円

原告は昭和五八年三月一一日から同年四月四日までの二五日間入院し、右入院期間中一日当り金一〇〇〇円の雑費を費やした。

(二) 入院付添費 金一〇万円

右入院期間中、原告の母古賀ともゑが付添った。一日当り金四〇〇〇円が相当である。

(三) 通院付添費 金三万六〇〇〇円

原告は、昭和五八年四月八日から現在まで治療のために通院し、そのうち、別表記載の一八日間古賀ともゑが付添った。一日当り金二〇〇〇円が相当である。

(四) 通院交通費 金二万三六二〇円

別表のとおり、原告の交通費金一万五八〇〇円と原告に付添った古賀ともゑの交通費金七八二〇円の合計である。

(五) 治療費 金二七〇〇円

昭和六〇年五月から昭和六一年四月までの治療費の合計である。

(六) 後遺障害による逸失利益 金二三二二万六〇一〇円

原告は本件事故によって右目の視力が〇・〇五に低下するという後遺障害を残し、右は自動車損害賠償保障法施行令別表後遺障害等級表第九級に相当し、労働能力喪失率は一〇〇分の三である。昭和六〇年賃金センサス産業計、学歴計男子労働者の平均給与額は年額四二二万八一〇〇円である(原告は女子であるが、賃金センサス女子の平均給与額を用いることは、女子の家事労働が全く評価されず不適切であるので、男子の統計を用いるべきである。)。原告の現在の年齢は、昭和四五年九月二三日生れであるから一五歳であり、就労可能年齢は六七歳である。そこで、ライプニッツ計算法によって一五歳の原告の逸失利益を算定すると、一五歳の者に通用するライプニッツ係数は一五・六九五であるから、次のとおり金二三二二万六〇一〇円となる。

422万8100円×0.35×15.695=2322万6010円

(七) 慰謝料 金六四〇万円

入通院慰謝料は金一〇〇万円、後遺障害慰謝料は金五四〇万円を下らないので、右合計は六四〇万円である。

(八) 弁護士費用 金三四八万一三三三円

原告は、弁護士である原告訴訟代理人らに本訴の提起追行を委任し、着手金として金五〇万円を支払い、報酬として認容額の一割を支払うことを約した。したがって、右五〇万円に右(一)ないし(七)の合計額の一割金二九八万一三三三円を加算すると、金三四八万一三三三円になる。

(九) 損害の填補

原告は、海風及び中出の父母から各金一二〇万円ずつ合計金二四〇万円の賠償を受けたので、右金員を損害の填補に充てる。

6  よって、原告は、被告らに対し、各自金三〇八九万四六六三円及びこれに対する昭和五八年三月一一日から支払い済みまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払いを求める。

二  請求原因に対する認否及び主張

A  被告所沢市

a 認否

1 請求原因1の事実は認める。

2 同2の事実は認める。

3 同3について

(一) (一)の事実は認める。ただし、彫刻板の大きさは、長さ二五センチメートル、幅一七センチメートル、厚さ一センチメートルの小板八〇枚を、横二八二センチメートル、縦一三三センチメートル、厚さ五センチメートルの木枠にはめ込んだものであり、これを四等分して六年生の一組から四組までの各組が二〇枚ずつ担当し、さらに各組では二人が組になって右一枚の小板を二人で分担していたものである。

(二) (二)の事実は認める。

(三) (三)の事実は争う。本件彫刻板の仕上作業をしていた海風が同人の隣で作業をしていた中出に貸していた彫刻刀を返してもらおうと思い、中出の持っていた彫刻刀を右手で強く引張ったために、その反動で、海風の左手に既に握られていた彫刻刀が、海風から一人おいて作業をしていて、たまたま顔を上げた原告の右目を刺したものであり、一瞬の間に突発的に発生した。

4 同4について

(一) (一)の(1)のうち、本件事故が正課授業中に発生した事故であるとの事実は認め、その余の主張は争い、(2)の事実は否認する。

(二) (二)の主張は争う。原告が本件小学校に在学していた関係は、公法上の関係に基づくものであって契約関係に基づくものではなく、したがって、在学契約関係から生じる安全配慮義務が発生することはない。

仮に右安全配慮義務なるものが発生するとしても、被告所沢市は、昭和五八年二月、鈴木政一教育長より、同市内の小・中・高等学校長宛に、児童・生徒の安全に十分配慮して指導するように通達し、本件小学校においては、当時の高柳英明校長が直ちに同校児童全員に対し、自己や他人の生命身体に危害を及ぼさないようにすること、特に刃物等には十分気をつけるように指導し、各担任教諭も児童に対し右同様の注意を与えていたのであるから、安全には十分配慮していた。

(三) (三)の主張は争う。無過失責任は立法論である。

5 同5の事実のうち、(六)の原告には本件事故によって右目の視力が、〇・〇五に低下する後遺障害が残ったとの点は否認し、(九)は認め、その余は不知ないし争う。本件事故による原告の右眼傷病は昭和六〇年三月一九日治ゆし、後遺障害として右眼視力〇・一になったものである。

b 主張

本件小学校の六年生学年主任桜庭昌吾教諭(以下「桜庭教諭」という。)は、昭和五八年一月下旬ころ、六年生全員に対し、本件彫刻板制作上の注意及び安全上の諸注意、ことに、危険な行為に及ばないように、また、各自けがをしないよう、十分気をつけるように注意を与えた。

また、浮田教諭も、六年一組の児童全員に対し、桜庭学年主任と同様の注意を与えていた。そして、同教諭は、本件事故当日、六年一組の四〇人の児童を半数ずつに分け、半数には六年一組の教室で卒業記念文集の作成に当たらせ、残りの半数を本件彫刻板の児童氏名彫刻部分等の彫刻指導に当たらせ、その都度児童らに安全上の諸注意を与えていた。さらに、左記各事情も存するので、浮田教諭には本件事故についての過失がない。

1 本件事故当時、彫刻刀は各児童が持っていたので貸し借りが行われることはありえなかった。仮に、彫刻刀の貸し借りが行われることがあったとしても、浮田教諭は、もし彫刻刀を貸し借りする場合は、自他共に傷つかないよう、彫刻刀をいったん机の上に置いて受渡しをするように指導していた。

2 本件小学校では、児童が是非善悪の判断ができるようになる小学校四年生から図画工作の授業で彫刻を教えることとし、児童は四年生のときから六年生までの三年間彫刻の教育を受け、その彫刻刀の危険性を十分に認識し、他人に危害を及ぼさないように配慮する教育を受けているのであり、小学校卒業を間近に控えた小学六年生は、学校生活にも適応し、相当の自律能力及び是非善悪の判断能力を備えていること、本件小学校の一組の児童は平素から浮田教諭の諸注意を守っていたことからすれば、児童らが右指導を守るであろうと期待することは当然のことであり、右指導の程度で事故回避措置としては十分である。

3 緊張感を欠く雰囲気の下で授業を行ったことはない。児童らが共同して一つのものを作り上げることは楽しいことであり、明るく楽しい雰囲気の下で共同作業を行うことは教育上必要である。

4 密集した状態で危険な作業を行わせたことはない。本件彫刻板は、前記のとおり横二八二センチメートル、縦一三三センチメートルの大きさであり、視聴覚室は、間口八・五メートル、奥行七・五メートル、面積六三・七五平方メートルの室で、横六〇センチメートル、縦四〇センチメートル、高さ六一センチメートルの机二卓を長方形に並べて、その上に彫刻板を載せていたほかには、教室の隅に黒板やいくらかの机があった程度である。そして、クラスの半数の児童約二〇人が右彫刻板を四方から囲み、縦に三、四人、横に六人、七人並んで作業を行っていたものである。右視聴覚室の面積、同時に作業していた人数等からして密集した状態での作業とはいえない。また、児童が膝まづいて作業をしたとしても、危険な姿勢で作業させたことにはならない。

B  被告埼玉県

a 認否

1 請求原因1の各事実は認める。

2 同2の事実は認める。

3 同3について

(一) (一)の事実は認める。ただし、彫刻板の大きさは、長さ二五センチメートル、幅一七センチメートル、厚さ一センチメートルの小板八〇枚を、横二八二センチメートル、縦一三三センチメートル、厚さ五センチメートルの木枠にはめ込んだものであり、これを四等分して六年生の一組から四組までの各組が二〇枚ずつ担当し、さらに各組では二人が組になって右一枚の小板を二人で分担していたものである。

(二) (二)の事実は認める。ただし、一度に作業していた児童数は約一四、五名であった。

(三) (三)の事実は争う。彫刻板の仕上作業をしていた海風が、同人の隣で作業をしていた中出に貸していた彫刻刀を自ら使用するため、彫刻刀を返してと言って、中出の左手に持っていた彫刻刀を右手で強く引いたところ、中出が急にその彫刻刀を離したために、その反動で海風の左手に持たれていた彫刻刀が、たまたま海風から一人おいて作業をしていて、立上がった原告の右目に当たったものである。

4 同4について

(一)(1) (一)の(1)の事実のうち、本件事故が正課授業中に発生した事故であること、本件事故発生当時の授業は彫刻刀を使用していたことは認め、その余は否認する。なお、学校教育においては、授業を指導監督する教師は教育指導の専門家であるから、専門家としての能力、知識、経験に基づいて授業の指導監督にあたることが要請されるという主張は争わない。

(2) 同(2)の<1>の事実は否認する。なお、小学校教育の中で彫刻刀の貸し借りが禁じられている理由は、彫刻刀の貸し借りを認めれば、児童間で彫刻刀がやり取りされる間に発生する事故を防止することにあるとの主張は争わない。

同<2>の事実のうち、児童に椅子が与えられておらず、自由に歩き回っていたこと、調整作業が六年三組によってすでに一通り行われていたことは認め、その余は否認する。

同<3>の事実のうち、本件彫刻板は六一センチメートルの高さの机に載せられていたこと、児童は椅子を与えられていなかったこと、中腰で作業をしていたことは認め、その余は否認する。

(3) 同(3)の主張は争う。

(4) 同(4)の主張は争う。被告埼玉県は、被告所沢市の設置する本件小学校の教諭の給与を負担しているものの、これにより、国賠法三条一項による損害賠償責任を負うことはないというべきである。

(二) (三)の主張は争う。現行法に反する主張である。

5 同5の事実のうち、(九)は認め、その余は不知ないし争う。

b 主張

次のとおり、本件事故は、海風が彫刻刀を引張った反動により突発的に発生した事故であり、作業現場に立合いながら指導していた浮田教諭にとっては、かかる突発的な事故の発生を予測することはできなかったものであり、過失はない。

1 小学校四年生以降の教育課程における図画工作の授業において、彫刻刀の扱い方を指導するのは、児童の発達段階に応じ、通常、児童が彫刻刀の扱い方の危険性を十分に理解し、担当教諭の指導に従って行動できるだけの能力を備えていると判断されるからである。担当教諭が本件のような授業に立合うのは、彫刻刀の技術指導だけではなく、彫刻刀の扱い方などの安全指導を行うためでもあるが、かかる安全指導は児童の発達段階に応じて、具体的状況の下で、最も適切な指導を行うことをもって足りるものである。そして、いかなる指導が最も適切な指導であるかは、一次的には教育の専門家たる教諭の判断に委ねられているものである。かかる観点から、本件を検討すれば、

2(一) 浮田教諭ら本件小学校の各教諭らは、小学校四年生から六年生までの三年間の教育過程において、彫刻刀を使用する図画工作の授業の度に、繰返して、彫刻刀の危険性とその取扱い方、作業上の注意、貸し借りの方法を指導しており、その指導は彫刻刀の貸し借りが行われたとしても、安全に彫刻刀の貸し借りが行われるように、また、その際には手渡しするのではなく、一度机の上に置いたものをとるというように徹底した指導であり、通常予測可能なあらゆる状況を想定して指導していた。

(二) のみならず、浮田教諭は、昭和五八年二月ころ、視聴覚室において六年一組及び二組の児童に安全上の注意等を具体的に指導するとともに、本件事故当日の朝も特に注意するように指導しただけでなく、視聴覚室において、彫刻板の仕上作業中にも、作業を行っていた児童を巡回しながら具体的な指導を繰返していたのである。

(三) 本件小学校の児童であった原告、海風、中出ら児童もかかる彫刻刀の危険性やその扱い方の指導を小学四年生以降の三年間に何度も受けて彫刻刀の危険性及びその取扱い方を十分に理解していたものである。

(四) しかも、六年一組の児童は平素から浮田教諭の指導に従って行動し、本件事故当時も、ふざけあったり大声を出していた児童はなく、原告ら児童が整然と彫刻板の制作を行っていたときに、本件事故が発生したものであり、ざわざわした雰囲気の下で発生したものではない。

(五) また、本件事故の加害者である海風、中出は、普段仲が悪いわけではなく、浮田教諭の指導に素直に従う普通の児童であった。

3 以上からすれば、浮田教諭は海風、中出が指導に反した彫刻刀の取扱い方を行うことまで予測することはできず、同人らが指導にしたがって安全に作業を行うものと判断し、整然と作業を行わせつつ、作業現場を巡回しながら適宜彫刻の技術指導を行っていたところであるから、一瞬の間の本件事故の発生を防げなかったとしても、その右指導判断に落度はなく、適切な指導であった。

三  抗弁

1  被告ら

原告は、昭和六一年二月一三日、日本体育・学校健康センター(旧称・日本学校健康会)から障害見舞金として金一七五万円を受領した。

したがって、原告の損害額から右金一七五万円は差引かれるべきである。

2  被告埼玉県

本件事故が発生したのは昭和五八年三月一一日であるから、原告の被告埼玉県に対する損害賠償請求権はその後三年が経過した昭和六一年三月一一日時効によって消滅した。

四  抗弁に対する認否

抗弁事実はすべて認める。ただし、被告埼玉県に対する損害賠償請求権が時効消滅したとの点は争う。

五  再抗弁

(一)  原告は、被告所沢市に対し、昭和六一年三月六日到達の内容証明郵便により、本件損害の賠償請求をし、その後六か月以内に本訴を提起した。

(二)  被告らの損害賠償責任は不真正連帯債務の関係にあるから、原告の被告所沢市に対する右請求の効力は、被告埼玉県に対しても及ぶ。

(三)  したがって、原告の本件請求についての消滅時効は、被告所沢市に対する昭和六一年三月六日の右請求によって、被告埼玉県に対する関係でも時効中断の効力を生じている。

六  再抗弁に対する認容

(一)  再抗弁(一)の事実は認める。

(二)  同(二)、(三)のうち、被告らの損害賠償責任は不真正連帯債務の関係にあるとの主張は争わないが、その余の主張は争う。不真正連帯債務においては、不真正連帯債務者の一人について生じた事由のうち債権を満足させるもの以外の事由はすべて相対的効力しか認められないのであるから、原告が被告所沢市に対してなした請求によっては、被告埼玉県について時効中断の効力は生じない。

第三  証拠関係<省略>

理由

一  当事者

請求原因1の事実は当事者間に争いがない。

二  事故の発生

同2の事実は当事者間に争いはない。

三  被告らの国賠法に基づく責任の有無

A  本件事故の状況等

本件事故当日、本件小学校の六年一組の児童約四〇名は、視聴覚室に集まり、机の上に載せられた図画工作の卒業制作としての本件彫刻板の仕上をすべく、担任の浮田教諭の指導監督の下に、約半数づつ交替で、本件彫刻板に氏名を彫刻し、あるいは彫り足りない部分及びつなぎ目の調整作業をしていたことは、当事者間に争いがない。

そして、<証拠>を総合すれば、次の事実が認められる。

本件小学校の六年一組による本件彫刻板の仕上作業は、当日の三校時及び四校時を通じて行われ、右の作業中、海風は、中出、宮川絵理子及び篠崎治に彫刻刀を貸していたが、中出らに貸していた彫刻刀を回収しようと考え、本件彫刻板の右端部に肩を合わせるように並んで前記調整作業をしていた中出と高橋万実との間に割り込み、膝まづいて作業をしていた中出に対して、その左手側から「返して」と言って彫刻刀の返還を求めた。これに対し、中出は、彫刻刀の刃先を前にして、海風に差し出し返還しようとした。ところが、海風は、中出が直ちに返そうとはしてくれないのかと誤解し、中出の差し出した右彫刻刀の刃先側を右手で握って強く引張ったところ、中出は海風が右彫刻刀を受け取ったと思い手を放した。一方、本件彫刻板の右下端の角付近で右高橋万実とほぼ向き合うような位置に膝をついて作業中の原告が、右海風の「返して」という声で顔を上げた。その瞬間、海風の引張った右彫刻刀が勢い余って、同人の左横付近に位置し、たまたま顔を上げた原告の右目に刺さった。

B  浮田教諭の過失の有無について

1  本件事故が小学校の正課授業中に発生した事故であることは当事者間に争いがないところ、国賠法一条一項にいう「公権力の行使」には、国や地方公共団体がその権限に基づき優越的な意思の発動として行う権力的作用のみならず、本件のような公立学校における教育作用のような非権力的作用も含まれると解され、公務員たる教諭に故意・過失があるときには国や地方公共団体は責任を免れないと解される。ところで、原告は、右責任原因について、学校事故においては無過失責任が認められるべきであると主張する(請求原因4の(三))が、かかる主張は民法上の不法行為と性質を同じくしながらも、その特則を定めたに過ぎないと解される現行国賠法の解釈としては到底採用できないものである。

2  ところで、小学校の教諭は、学校教育法等の法令により、学校における教育活動及びこれと密接不離の関係にある生活関係について、児童の安全を保護し監督する一般的な注意義務を負うものであり、しかも正課授業という学校における中心の教育活動を指導監督する教諭には教育指導の専門家として授業の指導監督にあたることが要請され、その上本件事故発生当時の授業のように彫刻刀を使用するというそれ自体が危険性を含む授業を担当する教諭には、右危険が顕在化して、児童の身体、生命を害することのないよう配慮して、事故の発生を防止すべき注意義務が課せられているというべきである。もっとも、授業を指導する教諭の負う児童に対する安全保護及び監督についての注意義務の内容は、個々具体的な事故との関連において検討されるべきものであると解される。

3  そこで、本件事故の場合を検討するに、

(一) <証拠>を総合すれば、次の事実が認められる。

(1) 本件小学校においては、四年生から六年生までの三年間の教育過程で彫刻刀を使用する図画工作の授業が設けられ、右彫刻刀の指導は担任がこれを行い、その際には彫刻刀の使用による自他傷の危険性に照らし、使用上の安全指導を繰り返しており、その安全指導は、彫刻刀が刃物であることを認識させ、彫刻刀の取扱い方として、箱の中から出し入れする、一度使用した彫刻刀は箱の中に入れるという内容のものであったこと

(2) 本件彫刻板の制作は昭和五八年一月一九日の学年会において決定され、当時、学年主任でもあった六年三組担任の桜庭教諭及び六年一組担任の浮田教諭が卒業記念制作の責任者となり、同年二月ころ、右浮田教諭は、一組及び二組の児童を視聴覚室に集め、安全上の指導として、「彫刻刀が刃物であること及び自他共に傷つけないように、特に彫刻刀の取扱いについて注意すること」という旨の訓示による指導をし、本件事故当日の朝も、「普段と違い、向かい合って作業をするので特に注意するように」との旨の注意を与えて、指導したところ、右指導に反する特段の事態が生じたことはなかったこと

(3) 本件彫刻板は、長さ二五センチメートル、幅一七センチメートル、厚さ一センチメートルの小板八〇枚を、横二八二センチメートル、縦一三三センチメートル、厚さ五センチメートルの木枠にはめ込んだものであり、六年一組の作業内容は、一組の児童の名前を彫るとともに、当日の一校時及び二校時に三組によってなされていた本件彫刻板全体の仕上作業の残りを引継いで完成させるというものであったところ、一組の児童全員が同時に作業をすることは困難であり、三校時には文集の作成に携わる児童もいたこと

(4) そこで、浮田教諭は、平素から生活班と呼称して六班に分けている一組の児童四〇名を、約半数にあたる三班づつ交替で作業にあたらせることとし、作業の交代に際しては教諭自らが交代の指示を出し、また、作業中は本件彫刻板の左下部の周りで児童氏名の彫り方を中心として、児童に対し、彫り具合や彫り方等の指導をなしていたこと

(5) 小学校卒業を間近に控えた小学六年生は学校生活にも適応し、相当の自律能力及び是非善悪の判断能力を備えていると評価できること

(6) 海風及び中出ら児童も、彫刻刀の安全指導を三年間の授業を通じて受けていたことから、彫刻刀の危険性やその扱い方について、卒業期を迎えた六年生として一応の理解をしていたと推認できること

(7) 本件彫刻板の作業は九割方を自宅で行い、大体彫り上がった時点で学校に持参して、各組毎に彫り具合の深さなどを調整する作業を行い、ほぼ完成した時点で木枠にはめ込んで、視聴覚室で仕上げるという段取りで行われてきたため、六年一組の児童らが小板を集合させた本件彫刻板に向って彫刻刀で作業を行うのも、共同作業としての彫刻刀使用の形態に至ったのも、本件事故当日が初めてであったこと

(8) 本件事故当時、高さ約六〇センチメートルの机の上に載せられた横二八二センチメートル、縦一三三センチメートルの本件彫刻板の周囲に児童が並び、児童と児童は肩が擦れ合う程度の密集状態で、椅子を与えられないで、各自が任意に立ったまま、あるいは膝をついて作業していたこと

(9) 右作業状況は、本件彫刻板の制作目的、規模、制作担当人員などの事情により、浮田教諭らの判断及び指示がなされた結果であること

(10) 小学校教育では、児童間で彫刻刀を授受する間に発生する事故を防止するため、彫刻刀の貸借が、原則的には禁じられていたが、浮田教諭は、普段の授業においては彫刻刀の貸し借りがされることがないので、彫刻刀の貸し借りを想定した注意をせず、本件事故当日の授業においても彫刻刀の貸し借りについては注意を与えず、児童間での彫刻刀の貸借を黙認していたこと

(11) 本件彫刻板についての作業中、実際の作業に従事できない約半数の児童及び氏名の彫刻が終了した児童等は、浮田教諭による氏名の彫刻の指導を周りで見学したり、本件彫刻板上の削りかす等の清掃をするなどしており、原告を含めて児童の中には作業にかかわる話や雑談をしていた者もいたが、大声を出したり、動き回っている児童はいなかったうえ、総じて大声を出したりあるいはふざけ合っているという状況にはなく、比較的整然と作業等をしていたこと

(12) 本件事故に関与した海風及び中出は普段仲が悪い児童ではなく、両名を含めて一組の児童は暴力的ないしは喧嘩早いなど問題行動をとる者はなく、浮田教諭の指導に素直に従う普通の児童であったこと

(13) 浮田教諭は、本件彫刻板の仕上作業を行っていた三校時及び四校時の途中において、一組の教室で文集の作成に携わっていた児童を指導するために視聴覚室から一組の教室に戻り、指導後視聴覚室に戻ったが、その間、浮田教諭が不在であったために、児童らが騒がしくなることはなく作業を継続していたこと

(14) 六年一組の児童は、平素から比較的図画工作は好きな科目で集中して作業をする傾向にあったこと

(二) そこで、これらの認定事実と前記Aの本件事故の状況に照して、原告主張の浮田教諭の注意義務違反の存否を以下検討する。

(1) まず、請求原因4の(一)の(2)の<1>の彫刻刀の貸借を認めたとの点については、一般的に、児童は小学六年生にもなれば相当の自律能力及び是非善悪の判断能力を備えてきていると評価でき、本件においても、海風及び中出らの児童は彫刻刀の安全指導を三年間の授業を通じて受けていたのであるから、彫刻刀の危険性やその扱い方を十分に理解していたと推認できるので、浮田教諭が彫刻刀の貸し借りの中で事故が発生することを具体的に予見し得たものということはできない。したがって、浮田教諭が彫刻刀の貸し借りに際しての特別の措置を採らなかったことをもって注意義務違反があると認めることはできないというべきである。

(2) 次に請求原因4の(一)の(2)の<2>の緊張感を欠く授業を行ったとの点については、作業のための発言を除いて、殊更に不必要な言動がなされたなどの緊張感の欠けた情況の存在を認めるに足りる証拠はない。

(3) さらに、請求原因4の(一)の(2)の<3>の密集状態で危険な姿勢のまま作業をさせたとの点については、児童らに対する彫刻刀使用上の注意についての従前の教育及び指導・監督の存在、六年一組の児童らの平素の行状・性向・交友関係・教諭の指導に対する受容能力、本件事故時の作業の教育的必要性及び同作業の内容・程度等のほか、本件事故が前例及び前兆なく瞬間的に生じたものであることなどの事情をも総合勘案すると、右予見可能性は、これをいまだ認め難いというほかはない。すなわち、元来、彫刻刀を使用する危険性を内包した作業を経験させることは児童の社会人としての将来に有益な事柄であり、そのための授業が必要であることは多言を要しないところ、その授業においては、危険性の故に険悪な雰囲気になることや極めて非能率的な停滞した部分的進行などは避けるべきことである。したがって、小学校卒業段階での児童の自律能力及び是非善悪の判断を相応のものとして評価しつつ、これらの児童に対する円滑な授業の実施に意を用いることは一般的に存在し得ることであり、かつ、これを事故防止上不相当な事態とすることはできない。そして、右各事情を前提にして、一般的な教諭としての認識能力及び指導能力の範囲内で本件事故のような突発的な事故の発生についての具体的な予見義務の問題としては、消極に解するのが相当である。

4  よって、その余の点を判断するまでもなく、原告の被告らに対する国賠法に基づく請求は理由がない。

四  被告所沢市の安全配慮義務違反による責任

1  公立学校における具体的情況下においては、児童ないし生徒に対する安全配慮義務が認められるべき場合の存することは考えられるところ、前記認定事実を総合すれば、浮田教諭及び桜庭教諭らは児童の安全保護についての教育上の指導・監督義務を果していたと認められ、その予見義務の範囲を超えて、本件事故を回避すべき義務が被告所沢市に存すると認めることはできない。したがって、原告主張の被告所沢市に対する安全配慮義務違反(請求原因4の(二)の(3)の(イ))の点に理由がない。

2  また、原告の主張する被告所沢市の人的物的施設の拡充に関する安全配慮義務違反の点(請求原因4の(二)の(3)の(ロ))は、主張自体抽象的で何等の立証もないから、理由がないというほかない。

五  むすび

以上によれば、本訴請求はその余の点について判断するまでもなくいずれも理由がないのでこれを棄却することとし、訴訟費用の負担につき、民事訴訟法八九条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判官 伊東正彦 裁判官 稲元富保 裁判長裁判官 小笠原昭夫は、退官につき、署名押印することができない。裁判官 伊東正彦)

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